2002年11月14日木曜日

〔再録〕『珊瑚集』私註 死のよろこび シャアル・ボオドレヱル


『珊瑚集』ー原文対照と私註ー

永井荷風の翻訳詩集『珊瑚集』の文章と原文を対照表示させてみました。翻訳に当たっての荷風のひらめきと工夫がより分かり易くなるように思えます。二三の 私註と感想も書き加えてみました。
シャルル・ボードレール
  原文 
                      
荷風訳
Le Mort joyeux Charles Baudelaire
Dans une terre grasse et plein d'escargots
Je veux creuser moi-même un fosse profonde,
Où je puisse â loisir étaler mes vieux os
Et dormir dans l'oubli comme un requin dans l'onde.


Je hais les testaments et je hais les tombeaux ;
Plutôt que d'implorer une larme du monde,
Vivant, j'aimerais mieux inviter les corbeaux
A saigner tous les bouts de ma carcasse immonde.


O vers ! noirs compagnons sans oreille et sans yeux,
Yoyez venir à vous un mort libre et joyeux ;
Philosophes viveurs, fils de la pourriture,


A travers ma ruine allez donc sans remords,
Et dites-moi s'il est encor quelque torture
Pour ce vieux corps sans âme et mort parmi les morts !
(Les Fleurs du Mal)
死のよろこび シャアル・ボオドレヱル
蝸牛葡ひまはる粘りて湿りし土の上に
底いと深き穴をうがたん。泰然として、
われ其処に老いさらぼひし骨を横へ、
水底に鱶の沈む如忘却の淵に眠るべう。

われ遺書を厭み、墳墓をにくむ。
死して徒に人の涙を請はんより、
生きながらにして吾寧ろ鴉をまねぎ、
汚れたる脊髄の端々をついばましめん。

おお蛆虫よ。眼なく耳なき暗黒の友、
君が為に腐敗の子、放蕩の哲学者、
よろこべる無頼の死人は来る。

わが亡骸にためらふ事なく食入りて
死の中に死し、魂失せし古びし肉に、
蛆虫よわれに問へ。猶も悩みのありやなしやと。

『珊瑚集』の巻頭を飾る詩です。これを最初に持ってきたのは荷風として考えるところがあったと思います。当然自分に引き比べていた。「腐敗の子、放蕩の哲 学者、よろこべる無頼」。若き荷風はこれこそ自分のことだと感じたのは自然です。

"Je veux creuser moi-même un fosse profonde" の訳の後に、行を変えず荷風は「泰然として」という言葉を付け加えていますが、それは次の行の「横へ」にかかる言葉。語数の関係でしょうね。そのほか「腐 敗の子、放蕩の哲学者、よろこべる無頼の死人」と言葉の並び方が原文とは逆になっています。これは動詞の前に「無頼の死人」を持ってくるためなんでしょう が、芸が細かい。

最後の行。蛆虫よ「われに問へ」と訳してますが、どうなんでしょう? (まだ死体の中に苦しみが残っているかどうか)「われに言へ(教えろ)」だと思うん だけれど、何か理由があるのかな。よく分からない。

飯島耕一はこの荷風訳を評して「翻訳技術者の手になる訳ではなく、この通り実行した人の手になる訳」としています。「生きながらにして吾寧ろ鴉をまねき」 という恐ろしい言葉を荷風はそのまま実行しました。「陋巷に窮死する」というのは荷風の若いときからの確信でもあったように思います。

つくづく思うんですけど文語はいいですね。特にボードレールの詩なんかは文語で訳すと大迫力です。口語訳ではどうも様にならないような気がします。聖書も 同じですね。昔の文語訳の方がよほど格調高かったです。

余丁町散人 (2002.11.14)

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訳詩:『珊瑚集』籾山書店(大正二年版の復刻)
原詩:『荷風全集第九巻付録』岩波書店(1993年)

2002年11月12日火曜日

Le Monde : セーヌの橋の下には・・・

2002.11.12
 
ルモンド紙から今日は再びパリの話題。セーヌ川の底にはいろんなものが眠っているというお話し。その中に出てくる「カロース型馬車」についてちょっと調べてみました。訳注として書いておきます。

Sous les ponts de la Seine...(2002.11.8)

セーヌの橋の下には・・・

「セーヌ川の底には、黄金がある、錆び付いた船がある、宝石がある、戦の武器がある。セーヌ川の底には、死体がある。セーヌ川の底には、涙がある」この「セーヌ川哀歌」という歌はモーリス・マグルの1934年の作詞。クルト・ヴェイルが音楽を付け、ミュージックホールの伝説的歌手リス・ゴーティーなどの多くの歌い手によって歌われてきた。でもこれは単なる詩にはとどまらないのだ。セーヌ川の底は、実際のところ、あらゆる種類の面白い、びっくりするような、そして時には怖いようなもので、いっぱいになっているのである。
パリの水上警察が厳かに言明している、「セーヌ川の底には何でもある」と。毎年6百万もの人がこの川を利用していることを考えればそれほどびっくりすることでもない。さて、パリ市内に架かる36の橋の下には、いろんな落っこちたもの、捨てられたもの、忘れられたもので、一つの生態系が出来ているのだ。たとえば、セーヌ川は携帯電話機の一大墓地であるし、盗難品なら何でも見つかる場所でもあることも事実。毎年30近くの自動車の残骸が川上の方で見つかる。これは保険金詐欺に絡むものか、荒っぽい泥棒の仕業なのか、本当のところはなかなか分からないのである。
また、冬のセーヌ川(ほとんど摂氏10度の水温)への飛び込み自殺犠牲者は毎年30人にも上る。幸いなことに水上警察の救援隊に救助される人の数も、飛び込み以外も含めて、毎年80人に上る。
しかしセーヌ川の底は、何にもまして、限りなく多様で多彩なもので覆い尽くされている。鉄製の柵や古タイヤ、買い物車、スクーター、多量の建築残骸、さらにちょっと珍しいが、橋の建築や補修に携わった労働者が置き去りにした工具類など。定期的に50年以上も水に漬かっていた砲弾が発見される。第二次世界大戦の時のものだ。時としてエンドウ豆が見つかることもある。大きな川船が沈み、積み荷の豆が流されたのだ。でも一番突飛なものは、疑いもなく、フランス革命当時の時代のものとされた「カロース型馬車」(訳注参照)だろう。これはポン・ヌフ橋の近くの川底に横倒しとなっていた。
だからといってセーヌ川がすっかり汚染されていると言うことではない。観察によると、すっと見かけなかった多くの種類の魚の群れが再び見られるようになっている。だから、セーヌの河岸で釣り竿をのばす人たちは、いまやパーチ(スズキの一種)やウナギ、ナマズ、更にスズキなどの釣果を期待できるのである。鳥類も例外ではない。カモメ、ウ、白鳥やカモなど、日増しに多く川に来るようになっている。そういうことで、セーヌ川は、多くの秘密を隠しながら、その川面に於いてもまた川底に於いても、多くの人・物・動物に出会える場所なのである。

Camille Le Gall

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訳注 「カロッス型馬車」Carrosse

大型有蓋四輪馬車。ガラス窓がある。川と木製のバネによるサスペンション付。前輪が独立して方向転換できる。また鋼製のスプリングを使用する新型のカロッスは「ベルリーヌ」と呼ばれた。馬車はとても高価であり、いまのお金にして一台3000万円ぐらいしたそうだ。ベルリーヌを軽快にするため半分に切った形にしたものを「切る」の意味から「クーペ」と呼ばれた。いまの感覚で言えば、カロッスはリンカーンコンチネンタル、ベルリーヌはメルセデス600,クーペはさしずめポルシェにあたるのか。当時の人は馬車に乗ることが(またどの型の馬車に乗るのかというのが)ステータスシンボルとして絶対必要で、非常に拘り、所有を渇望したらしい。参考書:鹿島茂『馬車が買いたい!』





2002年11月3日日曜日

秋のお便り


秋のお便り
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余丁町散人

あっという間に秋が終わりかけています。「夏のお便り」を書いたのはついこの間のような気がしますが、時間が経つのは早いものです(歳をとったのかな)。最近はいい天気が続きます。新宿御苑恒例の菊花壇展を覗いてきました。右の写真は新宿御苑ならではの「大作り花壇」。まだちょっと早かったですが、来週あたりにちょうどよくなると思います。嵯峨菊、大菊などはとても楽しめました。60代の上品な見物客が多く、展覧会となるといつも大挙して押し寄せるおばさん連中が居なかったことも、とてもよかった。

新宿御苑 菊花壇

うちの庭

山茶花が芽をふくらませてきました。まだほとんどが青くて固い芽ですが、一つだけ小さな蕾を色づかせてきました。左の写真です。散人が夏前にやった「自然流」剪定が功を奏したか、今年は芽の数が多い。冬の間が楽しみです。カキ、シャクナゲについては「にわか隠居の庭仕事」でご紹介の通りです(下のリンク)。

日本経済ですが、デフレが続いています。デフレが続く限り企業は儲からない。企業が儲からない限り株価は戻さない。もう諦めました。最低十年は「塩漬け」にするつもり。長期債も償還が危ないし、結局頼りになるのは手持ちの現金だけ。現金が王様の時代です。それを前提にアグレッシブにライフスタイルを質実生活に転換しました。けしからぬ輩を儲けさせる消費は一切拒否するという前向きの倹約生活です。

不思議なものでこんな質実生活をしばらく続けると今までのいい加減な消費生活が逆に心の貧しいものに見えてくるから面白い。かりに株が上がってももう決して昔のライフスタイルには戻ることはないでしょう。こういう風に感じている人は散人ばかりじゃないと思うし、デフレは当分続きますね。

東京街歩き
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観光地としての東京

海外旅行より費用が掛かりどこに行っても画一的な国内旅行には出かける気分にはなかなかなれません。逆に面白さを発見したのが「東京観光」。歩いて出かけられるし、これだけ興味深い材料の揃っているところは世界でも少ないのじゃないでしょうか。街を歩く人間を観察するだけでも楽しい。

最近発見したのが家から歩いてすぐの荒木町界隈。何十年も新宿に住んでいるのですが、荒木町のど真ん中に大きな窪地があり、そこに江戸時代からの池が残っていたとは知りませんでした。街全体がいわゆる「ネコ道」という細い迷路となっており、さながらカスバの雰囲気。東京に残された秘境が目と鼻の先にあったのです。

下の写真はその池。スッポンが一匹住んでいます。

2002年10月15日火曜日

〔再録〕デフレ対策はマルクスに聞いてみよう!

閉鎖される旧HPの収録物から面白いのを発見。再録:


2002.10.15


日経新聞を読んでいて久しぶりにマルクスに出会いました。「やさしい経済学」(10月3日から11日まで7回連続)で根岸隆先生がマルクス理論(搾取利子説)の解説をしてくださっていたのです。とてもわかりやすくて勉強になりました。もっと前にこういう説明を聞きたかったです。マルクスはやっぱり天才だったと改めて認識しました。

私が最初に読んだマルクスの『資本論』は実に親父の蔵書でした。父は学校には行かなかったのですが、興味はあったようです。どれだけ理解したのかは不明ですが、「搾取」という概念にはとても敏感でした。雑稿「父のこと」でも書きましたが、田舎から出てきてサラリーマンになったものの、月給取りでは搾取されるだけと言って独立し洋服店を始める。でも洋服店は服地卸業者から搾取されていると判断し、今度は卸売業に転進。さらに卸売業者もメーカーに搾取されていると感じてメーカーの経営を始めるといった具合でした。

その父が一度デフレとインフレについて説明してくれたことがあります。「デフレは月給取りに有利、インフレは商売人に有利」というのです。当時生意気だった私は「そんなことはないでしょう。経済学理論ではデフレもインフレも実体経済に対してはニュートラルなはずです」と一笑に付しましたが、いま根岸隆先生のマルクス労働価値説(搾取利子説)は現在価値と将来価値の概念を入れて吟味しないといけないとのご説明に目から鱗が落ちた気分になりました。根岸先生はそこまで敷衍されてはいなかったのですが、マルクスならデフレとインフレをどう説明したのだろうと、俄然興味が出てきて鉛筆で数字を書き散らしてみました。実に驚きましたが、マルクス理論で完全に現在のデフレが経済に及ぼす悪影響が説明でき、その対策まで提言できることがわかったのです。これはノーベル賞ものですな。

まず基本前提を根岸先生が提示された一番単純なモデルとします。つまり労働力と小麦だけからなる経済を想定。100単位の小麦を前貸しして労働力と交換しそれを小麦生産に投入すれば、1年後に200単位の小麦が生産できるものとします。前貸しした資本100単位を回収した後に資本家の手元には剰余生産物100単位が残ります。資本100単位に対して剰余価値が100単位ですから、剰余価値率(搾取率)は100%、利潤率も100%となります。

勿論マルクスは実質ベースで議論しているので価格変動は考えていません。そこで一年後には生産物(小麦)の価値は半分となると仮定しましょう。一年後に生産できる小麦200単位の現在価値は100単位ということになります。労働者に払った100単位の前貸し分を回収すると剰余価値率(搾取率)はゼロ%になってしまいます。資本家は資本を生産活動に投下することは止めてタンス預金に走ることとなり、経済活動は当然停滞します。これがデフレです。

逆に一年後に生産物(小麦)の価値が2倍となると仮定しましょう。一年後の生産物の現在価値は400単位。労働者に払った前貸し分100単位を回収した後の剰余価値は300単位。剰余価値率(搾取率)は300%になります。当然資本家はあらん限りの資本を生産活動に投入し儲けようとしますので経済は活性化します。これがインフレです。

本来価格とは貨幣と商品の相対比率でしかなく価格変動は実体経済に対してニュートラルなはずですが、どうしてこのようなことになってしまうのか。これは、すでに慧眼の持ち主はお気づきだと思いますが、上記いずれの場合も労働者に対して支払う前貸し分が同じ100単位ということです。賃金水準には下方硬直性があり、さらに賃金水準の変動は物価変動に対して遅行しますのでどうしてもこういうことになるのです。親父が言った「デフレは月給取りに有利、インフレは商売人に有利」という警句がマルクスによって裏付けられた感じです。やはり親父は偉かった。

ここまで見てくると、現在日本を覆っているデフレの悪影響をいかにして消滅させうるか、政策インプリケーションが明らかになってきます。それは賃金水準を物価水準に速やかに柔軟に合致させることなのです。そうすることによって剰余価値率は昔の正常な水準に戻ることになり投資活動は再開されるのです。この柔軟な賃金決定システムはインフレ状況下においても剰余価値率を一定に抑えますのでバブルの発生も未然に防ぎます。

上記のモデルは単純モデルで小麦の生産しか考えていませんが、現実に日本経済を一つの産業として考えた場合、低生産性部門への過剰報酬が上記のデフレ下における小麦労働者への過剰支払いと同じ悪影響を経済にもたらしていることが分かるでしょう。生産性に応じて公平に配分することがきわめて重要なのです。それを可能にするシステム作り、これが構造改革です。マルクス理論に基づいて社会作りをしたソ連共産党は「働かざるもの食うべからず」と言いました。「生産性に応じて賃金を払う」と言う意味で、マルクス理論に乗っ取った正しい政策です。いまの日本に必要なのはこういう「骨太の」経済政策なのです。

マルクスは常に新しい!

2002年9月25日水曜日

父のこと

2002.9.25〔旧HPに掲載〕

父のこと

亡くなった父、橋本幸次は、明治41年9月25日、富山県高岡の農家に生まれた。子供が多く生活は苦しかったようだ。ちなみに富山の米騒動は父が10歳の時に起こっている。大正12年14歳で上阪し洋服屋の丁稚奉公を始める。技術を身につけ大正14年に16歳で百貨店大丸に裁断士として就職。初任給は巡査の初任給は45円という時代に60円だった。数年勤務した後、独立し洋服店を開業。自転車で注文を取りに回る営業で徐々に商売を大きくし、戦後の混乱期も乗り切る。洋服小売では利潤がとれないと昭和26年には洋服小売店の上流部門である服地卸業に進出し、さらに昭和36年に関西ではある程度の名前が知られた食品会社の経営権を取得するなど、事業の幅を一貫して広げていった。97年に88歳で亡くなったが、その前日まで現役を引かず会社に車椅子で出勤していた。個性の強い人間で、独特の人生観を持っていた。時として周りの人間に辛く当たることがあった。

ぼくは五人兄姉の末っ子として生まれたので、年齢的にも父親とはとても距離があり、あまり一緒に遊んで貰った記憶はない。一度天王寺の動物園に連れって行って貰ったくらいだろうか。でも父は子供たちにはとても気にかけていたように思う。自分に教育がなく苦労したことから5人の子供はどうしても全員大学にやると頑張った。あるとき景気が悪く手形の期限延長を頼まざるをえなかったとき、先方はうちの子供は大学にもやっていないのにお宅は女の子まで大学にやって良い身分だと嫌みを言った。父は即座に「だったらその代わり私がタバコをやめる」と言って禁煙の誓いを立て、以来死ぬまでタバコは吸わなかった。子供の入学試験には仕事をさしおいて付き添っていった。自分が付き添うと試験に通るというジンクスを信じていたからである。ぼくの大学受験のときすら、来ないとの約束にかかわらず、試験の日ボタ餅を持ってやってきた。

ぼくは父親とは幸いにして比較的いい関係にあった。それは年齢的に離れていたことと、一緒に過ごす期間が短かったから故に、適当な距離を置いた関係であったからかも知れない。中学高校は受験校だったのでほとんど部屋にこもりっきりだったし、大学では親元を離れて下宿した。家業とは関係のない民間会社に就職し、それも東京だったし、海外も長かった。年に一二度しか顔を会わさない状況が何十年も続いていた。個性の強い人だったから、いつも一緒に居る家族はたいへんだっただろうが、その点ぼくは恵まれていると思っていた。

でも人生の節目節目で父親の力にすがった。絶体絶命の状況に追いつめられたこともあるが、父は何も言わず精神的、経済的に支援してくれた。普段は憎まれ口ばかり叩いてとりつく島もないような父親だったが、いざというときは積極的に救いの手をさしのべてくれたのだった。おかげでまだぼくはなんとか生きている。

亡くなる二ヶ月ほど前、実家に帰って父の顔を見た。ほとんどものを食べない状態だったが、昔と変わらない長舌ぶりだった。さすがに辟易してお暇を取ろうとしたら、父の口から「おとんぼ」という言葉が出てきた。はじめて聞く言葉だったが、富山の方言で「末っ子」という意味で、「おとんぼ」は家族の中で最後に生まれてきた子供であり、よって親と一緒にいる時間が一番短く、親の愛情を最も少なくしか受けられない子供ということで、可哀想な存在と言うことらしい。「おまえはおとんぼだから可哀想だ」と玄関に出ようとするぼくに向かって、繰り返し、ぼくを見るために椅子から反り返りながら言った。ぼくにとってそれが父の最後の言葉だった。

ほとんど実家に寄りつかなかったぼくの人生だったが、父は、ぼくのそういう生き方を哀み、同時に自分の人生をそれに投影していたのかも知れない。思えばぼくの人生も14歳にして家を出された父の人生に似ているともいえる。彼もずっと寂しかったのだろうと思う。以来、父のこの最後の言葉を思い出すことが多い。もっといろいろ父と話すことがあったような気がしてならない。

2002年9月20日金曜日

〔再録〕荷風碑の誤植の責任者は誰か?


  荷風塾学校通信No7『荷風の誤植』    余丁町散人、2002.9.20
「荷風」と名が付く本で出れば必ず買うことにしていますが、今回出された矢野誠一のエッセイ集『荷風の誤植』(2002.8.20発行)も早速購入。また新たな発見をしました。三ノ輪の浄閑寺の荷風碑に彫られている荷風の詩の「ミスプリント」についてです。有名な詩なのであえて全文引用します(テキストは岩波の最新版「荷風全集」)。

<引用>
震災

今の世のわかき人々/われにな問ひそ今の世と/また来る時代の芸術を。/われは明治の児ならずや。/その文化歴史となりて葬られし時/わが青春の夢もまた消えにけり。/團菊はしをれて楼痴は散りにき。/一葉は落ちて紅葉は枯れ/緑雨の声も亦絶えたりき。/圓朝も去れり紫蝶も去れり。/わが感激の泉とくに枯れたり。/われは明治の児なりけり。/或年大地俄にゆらめき/火は都を焼きぬ。/柳村先生既になく/鴎外漁史も亦姿をかくしぬ。/江戸文化の名残煙となりぬ。/明治の文化また灰となりぬ。/今の世のわかき人々/我にな語りそ今の世と/また来む時代の芸術を。/くもりし眼鏡をふくとても/われ今何をか見得べき。/われは明治の児ならずや。/去りし明治の世の児ならずや。
<引用終わり>

問題は、この詩の中で「圓朝も去れり紫蝶も去れり」とある「紫蝶」とは誰のことかと言うことです。これについて『荷風の誤植』で矢野誠一は「紫蝶」と名乗る人で圓朝と並び称するような人は居なかった。たぶん幕末から明治にかけて人気を博した新内語り富士松「紫朝」の誤植だろうとされているわけですが、その発見の経緯が面白い。実に川本三郎氏がわざわざ矢野誠一に手紙で聞いてきたというのです。

小生がこの「ミスプリント」についてはじめて知ったのは、1999年8月の江戸東京博物館での川本三郎の講演でした。矢野誠一はこの随筆を99年11月に書かれていますのでほぼ同時期ですので、川本氏は矢野誠一に確かめられたあと講演でお話になったものと思われます。一大発見とのことで会場は大いに沸きました。

小生もそうか誰も気がつかなかったのかと面白がっておりましたが、ところがその後、古本屋で買った磯田光一の名著『永井荷風』(昭和54年初版)を読んでいますと、その中で引用されている荷風の「震災」の文章はちゃんと「紫朝」となっていることに気がつきました。あわてて旧版の岩波全集(昭和39年)を見るとそこでも「紫朝」となっているではありませんか。でも最新版の岩波全集では「紫蝶」となっている。なんだか狐につままれたような気分です。

こうなると俄然興味がわいてきますので、いつもは読むことのない「校異表」なぞを引っ張り出して調べますとこういうことのようです。この詩が最初に活字になったのは1946年筑摩書房から出た『来訪者』で、そこには「紫蝶」と誤記されていたものを、中央公論社から出された「荷風全集」(1959年)ではだれかがこのミスプリントに気がつき「紫朝」と直したことがわかりました。その後出版された1964年の岩波版「荷風全集」でも正しい「紫朝」となっています。磯田光一は中央公論社版か岩波版かのどちらかの荷風全集から引用したので当然「紫朝」となるわけです。ところが岩波が1994年に最新版の荷風全集を出すに当たって、厳密に荷風の自筆原稿を確かめるとそこには「紫蝶」と書いてあった。あくまでも原本に忠実に記載するという編集方針も元に、あえて間違った「紫蝶」と元に戻したと言うことのようです。

荷風碑が建ったのは昭和34年に荷風が死んですぐあとだったと思いますので石碑には『来訪者』に書いてあるままを彫ったものでしょう。間違いに気がついて直した中央公論社の編集者は凄いと感心いたしました。さらに荷風の書き間違いをあえて元に戻してそのまま印刷するという岩波の編集方針にも敬服いたしました。でもそのおかげでいろんな混乱が起きたことも事実のようです。

何を細かいことを騒いでいるのだとおっしゃるかも知れませんが、荷風ファンというものはこのようなどうでもいいような細かいことに一喜一憂して大はしゃぎする人々なのです。このあたりの愉しみに淫することができないようでは、なかなか荷風ファンとは言えませんぞ。でもご安心ください。荷風が好きな人はだんだんそうなるのです。この駄文に興味を持ってここまで読んでくださったあなたも、そろそろそうなりかけている・・・。

最近小生の手持ちCDを整理していると新内のCDが出てきました。蘭蝶という色男に花魁が惚れるという「蘭蝶」という新内です。荷風はきっと紫朝が語るこの新内「蘭蝶」が大好きだったので、つい紫朝を「紫蝶」と誤記してしまったのではないかというのが小生の推理ですが、はたしてどうでしょうか。


追記)ここまで書いてきて、念のために川本三郎『荷風好日』(2002年2月)を読むと、川本三郎は後日、紫朝は若いときに紫蝶と名乗っていた時期があったという新たな発見をしたとの追記がありました(森まゆみ『長生きも芸のうちー岡本文弥百歳』に書いたあった由)。こうなってくると中央公論社の編集者が余計なことをしたと言うことになる。わかったと思ったらまた迷路にはまりこんでしまいました。荷風をめぐる事実関係は複雑怪奇です。奥が深いのう。











2002年9月15日日曜日

「長生きリスク」にどう対処するか

2002.9.15


今日は敬老の日。「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う国民の祝日」とのことです。お年寄りにはぜひ長生きして貰いたいものだと思います。でもそんなことを言う散人自身も、いつしかもう年寄りと呼ばれてもおかしくない年頃です。人生の現実の厳しさを前にして、そろそろ老後対策も考えなければならないようです。まず一番大切なことは老後を支える経済的基盤でしょう。いったい幾らあれば大丈夫なのでしょうか。

その点に関し「 老後のキャッシュフローを考える 」というホームページでとても参考になる解説があるというので早速読んでみました。執筆者は大手企業を定年退職され方ですが、具体的な例を挙げてとても説得力に富んだ計算を提示されています。正直言って驚きました。結論として年収1000万円以上の収入があった人が、生活程度をそれほど落とさずに、ゆとりある老後を過ごすには「公的年金以外に退職時に1億円必要」ということなのです。おまけにこの計算は平均寿命(男性は81歳)で死んでしまうことを前提としています。

今月厚生労働省が発表した全国高齢者名簿によると今月末までに百歳以上となる高齢者が1万7000人に達するとのこと。32年連続で過去最高を更新、どんどん長寿化の傾向を示しているとのことです。81歳まで生きることが前提で1億円ならば、100歳まで生きるなら2億円、120歳までなら3億円となります。たとえ退職時に1億円の蓄えがあるという幸運な人であっても、もし不運にも長生きしてしまったら、81歳以降はわずかな公的年金だけに頼る「惨めな生活」を送らねばならないと言うこと。これを「長生きリスク」といわずしてなんと呼べばいいのでしょうか。暗澹たる気持ちにさせられます。
もちろん計算の前提にはいろいろ議論があるかと思います。でも言えることはちょっとたいへんな事態と言うこと。年金システムは破綻仕掛けており、今更政府が何かしてくれることは期待できない。自助努力しかないでしょう。個人が出来る対応策とは、お金を貯めるというのは勿論でしょうが、他にどんなものがあるのでしょうか。基本的に二つしかないと思います。

一つは、定年後も収入を求め出来るだけ長く働き続けることです。ハッピー・リタイアメントは諦めなければなりませんが、たとえ収入が少ない仕事であってもトータル・キャッシュフローでは大きな違いとなって現れてきます。でも管理職を長く続けてきた人に出来る仕事と言えば、やはり管理的な仕事。老害をまき散らさないかが心配です。本人がフロアの仕事でもかまわないといって単純労働に従事するにしても、今度は就業が難しい若年層の仕事を奪うことにも繋がりかねません。 ただでさえ日本の高齢者は働き者で、高齢者の就業率はヨーロッパ諸国のそれの二倍にも達しています。これ以上高齢者の就業率が上がることは(たとえボランティアの仕事であるにせよ)決して社会的によい傾向ではありません。戦後のパージで企業と役所から年輩者がいなくなって日本経済はどれほど活性化したかは、源氏鶏太の『三等重役』を読めばわかります。それと逆のことが起きる。

もう一つは、ドラスティックな対応であるのですが、なにをもって「ゆとりのある」生活であるかとする基準を変えることです。つまりお金がなくても幸せに感じるように自分を訓練すること。若いときのように物質的な享楽に人生の幸せを求めることはそろそろ卒業し、むしろそれを軽蔑し、物質的なものでなく精神的なものに人生の幸せを求める生き方を目指すべきでしょう(開き直りですね)。これは仏教でいう悟りです。お釈迦様はやはり偉かった。

しかしお金を使わずに人生を楽しむには、それなりの基礎が必要です。スポーツにしても全くの下手なプレーヤーであれば本人も面白くないでしょうし、本を読むにしてもベースとなる教養がなければ楽しめません。お金を使わないでも幸福感を味わうということは、実は高等テクニックであり、基盤となるその人の教養次第です。それには長い準備期間が必要です。散人も、常々もっと若いうちからこの努力をしておけばよかったと反省しています。ルイ・ヴィトン店に群がる若者を見るにつけ、貧しさの反動としての顕示的消費フィーバーが日本でまだまだ続いていると感じます。そろそろ卒業してもいい時期じゃないかな。若い世代にとって、これが一番の老後対策、「長生きリスク」への対処法かもしれない。

高齢者が消費にお金を使わないのが経済低迷の原因とする俗説がありますが、気にすることはありません。日本経済にいま一番必要なものは一時的に総需要を押し上げるだけの消費需要ではなく、落ちてしまった経済の生産性を上げるための設備投資です。高齢者の金融資産という原資があってはじめて設備投資が可能になります。日本経済の将来のためにも、高齢者は過剰な消費に走ってはならないのです。自信を持ってお金は使わず質実剛健で行きましょう。

2002年8月29日木曜日

田端強君のこと

2002.8.29


田端強君のこと


歳をとるにつれ、古くからの友達が抜け落ちるように逝ってしまうことは悲しい。「長生きして良かったことは」と聞かれたさる高齢の財界人が「厭な奴が全部先に死んでしまったことだよ」と寂しそうに答えたという話を聞いたことがあるが、この世の中には厭な奴より良い奴のほうが数としては多いわけで、またたとえ厭な奴であってもその人との関わり合いとは自分の人生の確かな一部であったわけで、人は歳をとることにより必然的に悲しい思いを積み重ねざるをえない。特に小さいときからの友人を失うことはとてもつらい。田端強もそのひとりであった。

彼と知り合ったのは中学校の時だったと思う。机が前後して接していたので自ずと言葉を交わすようになったが、通学ルートが違うので最初は友達と言うほどでもなかった。当時の灘中生の通学経路は、3割が阪急岡本駅を利用、3割が国電の住吉駅、また3割が阪神の魚崎駅利用で、残る1割が阪神国道を走る国道電車と大ざっぱに分かれていて、学校から帰る途中で同じ電車を利用する者同士で寄り道したりして親しくなることが多かったのだが、彼と杉山は阪急組、僕は国道電車組だったのであまり顔を合わせることがなかったのだ。親しくなったのは高校になってから杉山和彦を介してのことだったと思う。三人でよく遊んだ。

田端は裕福な家庭の長男で父親の愛情をふんだんに受けて育っていた。夏の暑いときは当時は普通の人は見たこともなかったクーラーのある応接間で勉強させて貰っていたし、夏休みは勉強と称して涼しい山の上の六甲ホテルでひとりで過ごしていた。またお父さんが香港で買ってきたというローレックスを腕にして、家のセドリックを自由に乗り回していた(昔は16歳で運転免許が取れた)。そんな高校生はさすがの灘高にも少なく、地味な家庭に育った僕なんかにはものすごく格好良く見えた。畏敬さえ感じた。でも彼はそれをことさら自慢するでなく、また恥ずかしがるのでもなく、ごく自然に振る舞っていた。

彼と僕は京都大学に進学した。同級生は東京の大学に進む者が多くに行く、京都に行ったのは少数派だった。特に僕が入った経済学部には灘高出身者はひとりも居らず、寂しかったので彼の百万遍の下宿によく泊まりに行った。彼は勉強が厳しい工学部に入学したので「経済学部のぼんくらとは一緒に遊んでられない、じゃまするな」と時々追い返されたが、それでも彼の下宿の大きなベッドによく一緒に寝た。もちろん変な関係ではなく二人ともまだ子供だったのである。でも彼の方が成熟が確実に進んでいて、先輩としていろんなことを教えてくれた。酒の飲み方とか、服装の選び方とか、女性とのつきあい方とか。初めて女子大生とグループ・デイトをしたのも彼と一緒だった。体育会ヨット部に入部できたのも彼に付いていったからだ。受験勉強から解放されて彼を師としての京都での自由な生活は、本当に素晴らしく、数限りない楽しいことを一緒に経験した。

ところが、彼はもともとからだが丈夫じゃなく肝臓に問題を抱えていた。やがて彼の宿痾がぶり返すことになる。大学院に進む直前に彼は入院することとなった。一時は処方された強い薬の副作用で髪の毛が抜け落ちるということもあり悲惨だった。しかし、のちに田端夫人となる鈴恵嬢の献身的な愛情を受けて彼は再起する。

この間、深く考えることがあったのだろう。その時以来、彼はそれまでのどちらかといえばプレイボーイ的な生活とはきっぱり別れを告げ、徹底して真面目な生活をはじめた。長男であるにもかかわらず家業を継ぐことをやめ学者になる道を選ぶ。一転してそれまでの物質的なライフスタイルを、背伸びした格好が悪い贅沢として軽蔑するようになった。その変身ぶりにはみんな驚いた。

僕は大学を出て就職し、しばらくして海外に行ってしまったので、田端とだんだん縁遠くなった。海外から帰っても東京に住むことになり、彼とはなかなか会う機会もなかった。田端にしてみれば僕などはとっくの昔に卒業した軽薄な時代の遊び友達という分類に入っていたのかもしれない。彼が亡くなる前の数年間は年賀状も来なかった。あとで田端夫人に聞くと、晩年は体調が悪い状態が続き、健康に生活しているむかしの友達にどう近況を伝えていいか判らず、本人はとても辛そうだったとのことだった。

1991年8月、突然彼が亡くなったとの知らせを受けた。お葬式で彼の長男にお目にかかったが、彼と瓜二つだった。一度夫人と一緒に三人でゆっくりお話し出来ればと思ったが、その機会もないまま今に至っている。

僕も歳をとった。そのなかで田端強はいつまでも若く、人生で一番うきうきしていた時代の象徴として、僕の心に深く残っている。何でもかんでも彼のまねをした当時を懐かしく思い出す。最近、僕も今まで馬鹿のように熱中していた消費型のライフスタイルをうざく感じるようになり、それから距離を置くようになってきている。これは田端強が数十年前にすでに悟っていた境地に近いのかもしれない。彼はいつになっても僕のライフスタイルの先達なのだと思う。



〔旧HP閉鎖により再録〕

2002年8月19日月曜日

夏のお便り


夏のお便り
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余丁町散人

今年は異常に暑い日が続くと思っていたら、今日は雨が降って急に気温が下がりました。秋にならないうちに急いで夏のお便りをいたします。

家内は6月、7月とフランスに帰っていました。家族でブルターニュの夏の家で過ごし、涼しくてたいへん快適だったそうです。この夏の家は家内の亡くなったお父さんが若い頃海沿いの農家を買ったもの。石造りの壁は厚さが1メートルはあろうという古い建物で浜には船もおけます。ヨーロッパの生活には、この石壁のような蓄積の厚みがあり、羨ましい限りです。

散人は東京に残って猫と庭の世話をしておりました。世話の甲斐があって、今年はモモがたくさん実をつけました。砂糖煮にして食べています。

モモが実をつけました

昼寝するピカチュウ

猫を飼っていると猫がだんだん主人に似てくるのか(主人が猫に似てくるのか)、うちのピカチュウは昼寝をするとき枕を使うようになりました。時々夢を見ているのか、寝ながら尻尾を振ったり猫キックをしたりします。朝も以前は早起きだったのですが最近は8時頃まで朝寝坊をします。

暁は昨年文学部フランス文学科を卒業しコンピュータ・グラフィックの専門学校で勉強していましたが、今年ようやくソフト会社にCGデザイナーとして就職が内定しました。来年の4月から社会人となります。若年層の就職がなかなか難しい状況下、ほっとしております。就職の作品選考用に暁が作ったCGをHPにアップしておきました。下のリンクです。

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新しいマック

散人のマックを新しい iMac に換えました。古い初代 iMac をだましだまし使ってきたものですが、HPを作るようになるととても旧型マックでは対応できないことが分かりました。OSが全く新しくなっており、驚きました。昔々、初代の 512k マックを買ったときの感動に似ています。新しいエクセルのデーターベース機能にも感動。文学作品の索引作りに挑戦しようかと考えています。現在荷風の参考書の整理とか、團伊玖磨の『パイプのけむり』全巻のインデックス作りを始めています。こんな事をしていますと時間は幾らあっても足りません。

景気がいつまでたっても良くならないのでいささか憂鬱です。北風の中で外套が飛ばされないように身を小さくする旅人のように、いつかは暖かい太陽がでてくるものと期待して、それまでは地味に行こうかと思っています。

2002年8月14日水曜日

「やっぱり」連発はやっぱり駄目

2002.8.14


JA全中の宮田勇新会長のテレビインタビューをNHKニュースで見ました。日本の農業の今後についていろいろ語っておられましたが、むしろ面白かったのは、その内容よりこの方のお話の仕方。お口癖なんでしょうが「やっぱり」という言葉を盛んにお使いになる。曰く「やっぱり」食べ物は安全が第一だし・・・、「やっぱり」環境保全に配慮しなければ・・・、「やっぱり」農業が心の安らぎをもたらすということも考えて・・・、「やっぱり」主食は自給でなければならないし・・・エトセトラ、エトセトラ。「やっぱり」を短い3分ぐらいの間に30回ぐらいはお使いになってました(6秒に一回ですかね、計算すると)。

この「やっぱり」が気になって、テレビを見ている間、お話しの方はそっちのけで、もしこれを外国語に通訳しろと言われたらどう訳せばいいのだと考えていました。強いて言えば英語の場合 after all なんでしょうが、今ひとつフィットしない。すくなくとも after all は3分間に30回も使う言葉ではない。どうもこの方はこの「やっぱり」に、英語の after all の前にあるべき縷々とした議論を排除して、いきなり村落共同体に生きる人間の本能みたいなものに訴えるキーワード的意味合いを持たせているようなのです。「みんなが建前は別にして本音で期待しているとおりに」というような感じ。JA内部ではこれが説得力を持つのでしょうが(だから会長になられたのでしょうが)アウトサイダーにはとてつもなく違和感がありました。

企業でも社会でも、この「やっぱり」がはびこると改革は出来ないように思います。「やっぱり」日本式経営の良さも考えないと・・・、「やっぱり」公共事業の社会的役割も重要であって・・・、「やっぱり」郵便局の果たしてきた役割を考えると・・・、「やっぱり」間接金融主体の従来方式の良さもあって・・・、「やっぱり」日本の国際的な責任を考えると・・・「やっぱり」受験教育制度にもそれなりのいいところもあるし・・・エトセトラ・エトセトラ。すべて既得権益の擁護のために手垢の付くほど頻繁に使われてきた言葉ではないでしょうか。

はなしを農業に戻しますが、農業とは人間の歴史はじまって以来、もっとも基本的な産業でありました。産業である以上、人は生きるか死ぬかの覚悟で、その時代の最先端の技術を活用し効率性を追求することで生産活動に励んできました。広大な北海道の牧場もヨーロッパの緑の農地も、すべて人間が必死になって原始林を切り開いて「環境を変化させながら」造ってきたものじゃないですか。農業は環境に貢献するから非効率性が許されると言うことでは決してないのです。

全国各地の農村の生活風景を紹介するNHKの「ひるどき日本列島」をみていると、日本の農村では、本当にみんなが一緒に仲良く楽しく「園芸農業」をしているなあと実感します。趣味でやるぶんには結構なのですが、日本の企業では当たり前の国際競争のなかで命がけで競争にうち勝つぞと言う気迫が感じられないように見えます。

「やっぱり」を連発していると、やっぱり駄目になります。


2002年8月6日火曜日

〔再録〕荷風とお金と物価の悲劇

「荷風塾」(永井荷風ファンクラブ)学校通信 No.6
             荷風とお金と物価の悲劇

2002.8.6 

むかしの小説などを読むとき、お金の単位に苦労することがよくあります。「○○円だ」と書いてあっても、それがどういう意味を持つのか、高いのか安いのかよくわからない。特に荷風の小説にはお金が頻繁に登場します。そこで明治・大正・昭和の各年代を通じて貨幣価値がどう変化したのかを調べ、それを荷風の年表に組みこんでみました。さらに、毎年、荷風が稼いだお金、使ったお金、結果として金融資産残高はどう推移したのかなども表計算ソフトを使い大胆にも推定してみました。その一部が下のグラフです。とても面白いことが分かりました。



推計方法について

当時の物価の推計ですが、卸売物価指数については日銀の戦前基準の長期統計があり信頼できそうです。消費者物価については明治まではさかのぼれませんが、足らない部分は醤油やお米の値段で代用させ一応の数字が作れます。これで当時の価格水準は推測できるわけですが、その価格が「当時の人々にとって」どういう風に実感されたかは、当時の賃金水準を考慮する必要があります。結局、消費者物価基準、卸売物価基準、賃金基準の三つの基準で「一円の値打ち」を計算いたしました。この三つの数字を参考にしながら当時の文章を読むと、ぐっとわかりやすくなるようです(自画自賛)。

荷風の金銭的な収支状況については断片的ではありますが、たくさんの数字が残されています。税務署による所得金額の認定とか、敗戦直後の財産税の計算とか、不動産の売買金額とか諸々の数字が日乗に書かれています。吉野俊彦氏が『断腸亭の経済学』という面白い本でそういう部分をたくさん抜き出して居られますので、活用させていただきました。それらの要所要所の数字を押さえて、それが実現するような年々のキャッシュフローを推計すればいいわけです。となるとエクセル表計算ソフトの出番です。段階的接近を繰り返し、なんとか矛盾がないところまでつじつまを合わせました。計算表(エクセルファイル)は公開フォルダーに入れてありますので興味のある方はダウンロードしてください。

これらの数字からいろんな事が言えると思いますが、私にとって印象的だったのは、荷風は大正年代の末から(円本ブームに乗じて)ほぼ右肩上がりに自分の金融資産を増やし続けたにもかかわらず、それが物価水準とか賃金水準といういわゆる外的尺度で測ると、きわめてドラスティックな上下変動を示していることです。上に示したグラフでもおわかりいただけますが、絶対金額では戦前ほぼ安定していた荷風の資産残高は、昭和の初めのデフレ状況下では大きく購買力を上げ、荷風はきわめてお金持ちになったように感じたと思われます。でも以後経済はインフレに転じ年々財産の(物価賃金比較での)減少が続き窮乏感が強まります。敗戦直後、戦時中に書きためていた作品を発表しふたたび巨額の現金を手に入れるのですが、預金封鎖とインフレでまたもや(物価賃金水準からみて)極端な貧乏になるという具合です。

これは個人ではコントロール出来ないまったくの外部環境によるもので、金融資産だけが頼りの老人荷風にとっては精神的にとても厳しいものがあったと思われます。4回にのぼる空襲による罹災以上に、戦前戦後の経済変動は荷風に大きなストレスを与えたと考えられるのです。その影響が書いた作品にも現れてきているように思います。

文学もエクセルを片手に読むと一段と楽しくなります。

(参)荷風経済年表抄(余丁町散人作成) 

























2002年7月21日日曜日

〔再録〕荷風はやはり背が高かった! 2002.7.21


「荷風塾」学校通信 No5
School News
2002.7.21              余丁町散人
新発見
荷風はやはり背が高かった!ちょっとした「大発見」をしました。やはり荷風は背が高かったのです。下の写真がその証拠です。どうしてそうなるのか、これから説明します。


(写真をクリックすると大きくなります)






今までの定説
 松本哉氏による身長推計松本哉氏が荷風の身長推計を発表されるまでは、荷風は背が高いと考えられてきました。『日和下駄』の冒頭の「人並みはづれて丈が高いわたしは・・・」という印象的な文章が人々の頭のなかに「背が高い荷風」というイメージを定着させてきたのです。俗世間を一段低く見て辛辣な批判を続けた孤高の偏屈男であったことも「背が高い荷風」というイメージづくりを手伝ったものと思われます。わたしもそういう風に考えておりました。

ところが松本哉氏はその著『永井荷風の東京空間』のなかでその通説を真っ向から否定されました。現存する荷風の写真から(三ノ輪の浄閑寺の門に立つ荷風の写真)から荷風の身長は165センチと推計されたのです。みんなとてもガッカリしました。

ところが反論しようにも、松本哉氏はれっきとした証拠写真をお持ちですから、反論材料がなかった。みんな悔しい思いをしたと思います。でもご安心ください。新しい反論材料が出来たのです。
関口水神社の銀杏と鳥居
"Smoking gun" (動かぬ証拠)
ページの一番左上にある小さな写真をクリックしてみてください。これは荷風が昭和20年4月10日に描いたスケッチです。当時の荷風は偏奇館を焼け出され中野に移っていたのですが、4月10日、関口から早稲田を散歩します。水神社の境内から早稲田の町並みを描いたのがこのスケッチです。

小生はこのスケッチが好きで、一度同じ風景を写真に撮ってみたいと思い、最近水神社に行って来ました。そこで荷風のスケッチ通りの写真を撮ったのが左の写真です。ほとんど同じ風景です。

ところがこの写真を撮るのに意外にたいへん苦労しました。どうしても荷風のスケッチ通りにはならないのです。銀杏を写すと鳥居が見えない。逆に鳥居を写すと銀杏が入らない。鳥居の位置が低すぎるので相当高い位置からでないと荷風のスケッチ通りの眺めとはならないのです。

そこで神社の前にある踏み石に登り、デジカメを頭の上に高く掲げながら撮影したのが左の写真なのです。わたしの身長は175センチ。だから荷風が左上のスケッチが描けるためには荷風はわたしより、少なくとも5-10センチは、背が高くなければいけない計算です。

やっぱり荷風は背が高かったのです。大満足です。

ちなみに松本哉氏の写真推計ですが、同氏がお使いになった写真では荷風は門からちょっとだけ内側に立っているように見えます。広角レンズの場合、わずかな距離差で大きさが違ってきますので、実際より低く見えてしまう可能性が強いと思います。

半藤一利氏は昭和34年荷風の死に際し真っ先に駆けつけた人ですが、「市川署が葬儀屋に手配して届けさせた2500円の棺」は荷風には小さすぎて「無理矢理足を曲げて棺に入れた」と生々しく証言されています(『荷風さんと昭和を歩く』)。

われらが「大荷風」はやはり背の高さでも「大荷風」であったのです。

2002年7月8日月曜日

杉山和彦君のこと

2002.7.8

杉山和彦君のこと

杉山が死んでからちょうど4年になる。神戸港の埠頭での無惨な最期だった。理由はわかっていない。

杉山と友達になったのは、多分中学3年生か高校一年生の頃だろう。学校からのスキーに行くとき急行「ちくま」で同じところに座った。彼と一緒に座れて良かったと漠然と感じたことを覚えている。癖のある連中が多い学校だったが、杉山は芦屋のぼんぼんらしく品がよくって社交的だったから。スキー場でリフトから、彼がなんでもない緩やかな斜面でああ向けざまにひっくり返ったシーンも覚えているから、風景からして中学校のころ毎年行っていた野沢温泉ではなく、妙高か赤倉だったと思う。だったら高校一年生だったのだろう。

彼はぼくのことを「スマイリー」とあだ名を付けた。当時聴衆の方を向いてバンドを指揮することで人気があったスマイリー小原に額が似ているとの理由。カタカナのあだ名はちょっと格好が良くうれしかった。彼の交友範囲はいわゆる遊び人タイプの阪神間のぼんぼん連中であり、おかげでそれまでは遠くで見ているだけだったそういう連中とのつきあいも出来た。亡くなった田端強もその一人だった。田端は16歳の時に運転免許を取っていたので彼の運転で三人でよく遊び回った。車はそれぞれの親の車を順番に無断拝借するのだが、出来たばかりの名神高速をぶんぶん飛ばしたり、六甲山に上ったり、子供だったからそんなことで楽しかった。三宮近辺の、当時は不良のたまり場とされていたジャズ喫茶に杉山とよく行った。ふたりともウクレレを弾く程度で楽器は駄目だったが、不良の振りをするのが好きだったのだ。

大学になると杉山は慶応に行き、ぼくと田端は京都だったので別になってしまったが、夏休みなどは一緒に遊んだ。正月にいきなりぶらっと来て二人でドライブに出かけたのはいいけれど、西国街道を北に進むうちに調子に乗って「ぶんぶん」進みついに舞鶴まで行ってしまった。ロシアの貨物船が日本海に浮かんでいるのを見てさすがに遠くまで来たと心細くなり、そうそうに帰路に就いたが、帰りの雪道でパンク。杉山のお母さんの車を正月に持ち出していたので後で大目玉を食ったこともあった。

大学時代、杉山は原宿にアパートを借りていた。皇家飯店の横を入ったあたりだったが、当時から原宿は遊びスポットとして注目を浴びていた場所。住むところといいいでたちといい杉山はいっぱしの「遊び人」で、いろいろその方面の蘊蓄を聞かされたが、不思議なことに彼と女性を交えて遊んだ記憶はない。口や格好とは別に、女性にはシャイな人間だったと思う。卒業論文も見せてもらったが立派なものだった。就職が決まるとすぐ「財界」とかの経営雑誌を読み始め、財界内情についてとかいろいろ彼の「講義」を聴かされた。ウブで世間知らずのぼくにとって彼は「人生の先輩」であった。

卒業してから彼は化学会社に就職したが、しばらくして辞め親戚筋の老舗企業に移った。その会社の社長の娘と結婚したので、やがては跡を継ぐとの含みとのことだった。だが会社は奈良にあったので彼も奈良に転居し、田端は一転して真面目な大学の先生になったり、ぼくは外地に行ったりして、それまでのあそび仲間と頻繁につきあうことが少なくなった。葬式の時に仲間の一人が「杉山も可哀想に、奈良みたいなところに行ったから駄目なんだ。阪神間に居ればこんな事にならなかった」とぽつりと漏らした。

ぼくが外地から帰ってきて、ある理由で実家に出入りできなかったとき、「困っているときこそ友達だろう」と言って杉山はぼくと家内の関西でのロジスティックを世話してくれた。彼の会社は全国に工場を持っていたので東京には頻繁に出張してきた。その際よくぼくのマンションに泊まった。半年に一度ぐらいは会っていたのだろうか。いつも変わらない馬鹿話と自慢話をするなかであったが、ただ彼が社長を引き継いでからは、ちょっと座ったような目つきをしていることがあり、社長業のストレスの強さをかいま見る思いもした。

彼が亡くなる数ヶ月前、彼と神楽坂で飲んだ。ちょうどぼくが個人的トラブルを抱えていたときでつい愚痴っぽくなったら、杉山は急に反対サイドに立って感情的に説教をはじめた。腹を立てたぼくが「そんなこと言うやつは友達じゃない」といってしまい彼は一転して如才なく話題を変えたが、妙に気になった出来事だった。ぼくが抱えていた問題と同じ種類の問題を彼も抱えているのだと第六感で感じた。

2-3ヶ月たって彼から電子メールでぼくの書いた文章に対する感想を寄越してきた。誉めてくれていたのだが、いままで無かったことであり珍しいことだと思った。へんに真面目くさった文章でありこれも奇異に感じた。それから一ヶ月ちょっとして彼は死んでしまった。

困ったときこその友達だろうに! 最後まで弱みを見せなかった杉山と役に立てなかった自分が腹立たしく無念である。7月8日夜中、彼は車を出して、自宅のある奈良から楽しい子供時代を過ごした神戸まで彷徨ってきたという。そのとき彼の頭のなかには何があったのだろうか。



〔旧HP閉鎖により再録〕

2002年7月2日火曜日

ワールドカップ雑感(日韓関係)

2002.7.2


スポーツ観戦はそれほど趣味ではないんですが、さすがにワールドカップ期間中はテレビを見ることが多かったです。日本が勝つと大興奮。負けてしまうと悔しかった。でも同じ開催国である韓国が残っていたから韓国応援に切り替えました。見てみると韓国は強いですね。強豪イタリアには走りまくって辛勝し、優勝候補のスペインまで撃ち破ってしまいました。散人は韓国を応援していたので「非常に結構」だった筈なんですが、正直に認めますと、何か複雑な感情も芽生えてきたのも事実でした。「日本が負けたのに何で韓国だけが勝ち続けるの」とちょっと面白くなかったのです。散人ばかりじゃなく、多くの日本人が同じような感情を持ったといろんなところで聞きました。ちょっと由々しきことかもしれません。

考えますに、これは「嫉妬心」です。「嫉妬」と言えば、女性の方には失礼ですが、古くから女の専売特許みたいに考えられてきました。でも男にも嫉妬心は確実に存在する。もっとも観察してみますに男と女では嫉妬の現れ方がちょっと違うようです。女の場合「いいなあ、あんなのになりたいなあ」と願望の形で現れるのが多いのに対して、男の場合は「なんだ憎たらしい、いい思いをしやがってけしからん」と否定的な形で(足を引っ張るともうしましょうか)表現されることが多いようであります。もちろん女の方にも男のような嫉妬をもたれる場合もあり、逆もまた真の場合もあるのですが、なんかこんな感じがします。

嫉妬心がサッカーとか男女関係に留まっているかぎり大した問題ではないでしょう。けれど昨今この感情が社会問題、国際問題まで広く広がりつつあるような気がします。日本には江戸時代から「等しく貧しきを憂えず」という結果平等思想がありました。「みんな貧しくとも人並みである限り」特に不満はなく、自分の交際範囲や認識範囲が限られた範囲に留まっていた時代には、人々は結構幸せであったと思うのです。でもグローバル化、情報化の時代になるとそう言うわけでもなくなってきます。映画やテレビで見るばかりだった豊かな国の豊かな生活ぶりがより直接的に個人的に認識されるようになり身近なものとなってきています。いままで認識しなかった格差を認識する機会が増えたとも言えるでしょう。ならば「男の嫉妬心」に基づく摩擦は今後どんどん増加すると考えるべきでしょう。昨年の同時国際テロ事件の背景にも、貧しい国の豊かな国に対する嫉妬心があったとの見方があるのです。

また今回サッカーを見て改めて認識したことは、世界的に「ナショナリズム」がまだまだ健在だと言うことです。何十万人が街頭に繰り出し自国のチームを熱狂的に応援する。あのエネルギーに、たかがサッカーといえないような、ある種の不安を感じてしまいました。このナショナリズムが、グローバル化でますます燃え上がりやすくなっている上記の「男の嫉妬」感情と結びつくとどういうことになるのか、戦前のナチズムが裕福なユダヤ人に対する一般人の嫉妬感情から生まれ出たものであることを考えると、日本は明らかに妬まれる側に属している以上、空恐ろしいような気がします。

今回のワールドカップで韓国は、そのチームの体力、技術、それを応援する国民的結束力、全ての面においてその強さを示しました。こういう不安な世界であるからこそ、日本は強い隣人を頼りにするべきです。間違っても敵対側に追いやってはなりません。故高坂正堯が「歴史上のアングロサクソン常勝の秘密は常に強い相手を自分の味方に取り込んだから」と言っていましたが、現在の日本に当てはめて考えると韓国は強くなったからこそ日本の味方として取り込むべしと言うことでしょう。

散人が韓国に初めて旅行したのは1975年でしたが、当時の韓国の貧しさに驚きました。それに比べれば現在は驚くほど豊かな国になっており日本とほとんど変わりません。その意味で「気を遣うことなく話が出来る」相手です。
日本と韓国の二国間の歴史は、支配被支配を繰り返し長年に渡りいがみ合ってきたイギリスとフランスの歴史と似ています。でもいまやイギリスとフランスは、よきライバルではあっても、ほとんど共通の文化と価値観を共有し、お互いに尊敬しあい協力しあう仲となっています。やれば出来るのです。今後の日韓関係が目指すべきものは、現在のイギリスとフランスのような関係に他ならないと感じます。

2002年6月1日土曜日

日本国債格下げに立腹する阿呆どもの見当違い

2002.6.1


ムーディーズが日本国債の格付けを二段階引き下げたことで怒っている連中がいる。塩爺財務大臣は「(格付けは)民間会社が勝手にやっているだけで、だからといって政策の変更はしない」と「不快感」を露骨に示し開き直るし、経済界にもその妥当性を疑う声もある。新しい「A2」という格付けは先進国では最低であることはもちろん、チリ、ボツワナなどよりも低いと云うことで、さすがに誇りを傷つけられたらしく、マスコミ論調もそんな感じだ。日本は世界最大の貯蓄国で世界最大の債権国、経常収支黒字国なのに出稼ぎホステスの親元国やアフリカの最貧国よりランクが低いとはどうしたことだ、これはおかしいというわけ。でもちょっと待ってほしい。

繰り返すまでもないことだが、国債の格付けとは国の経済力の格付けではない。国債が間違いなく償還されるか、デフォルトの可能性があるかどうかという技術的な問題なのでである。現代日本のように、経済は一流でも政府と政治家が三流であれば、経済力が一流であるからこそ余計に(当てに出来る財源があるから余計に)「お上」が発行する約束手形は(国債)は踏み倒されるリスクがあるともいえるのである。

民間企業がビジネスする際に指標とするカントリーリスクのグレード評定にあたっては、その国の基礎的な経済力とともに、その国の政府の「借金はどうしても返す」という意志の強さの程度が重視される。70年代の中南米の経済危機では経済力よりむしろこれが問題となった。今の国債格付けにおいても同じことがいえる。日本政府に本気で借金を返す意志があるのかどうか、国民は確信が持てないのである。

何せ日本政府には数々の借金踏み倒しの前科がある。古くは鎌倉時代の徳政令。鎌倉幕府とご家人の莫大な借金はこれで帳消しにされた。江戸時代の大名も裕福な町人から借りるだけ借りて結局踏み倒した。江戸幕府は貨幣の金含有量を継続的に低下させることで己の借金を踏み倒した。明治政府も借金で戦争をして結局その借金をインフレで帳消しにした。第二次大戦後の預金封鎖やハイパーインフレによる借金の踏み倒し策も悲惨で記憶に新しい。戦時国債を無理矢理買わされた国民のお金は全て紙切れとなったのである。戦後のインフレとバブルも同じような性格がある。80年代のバブルで勝ち逃げをした連中は誰であるのか特定することは難しいが、一つだけ確実にいえることはバブルは日本政府に莫大な税収をもたらしたということ。それも現金でである。日本政府こそが真のバブルゲームの勝ち逃げ成功者、バブルの最大の受益者であった。

財務省は 今回の格下げは日本経済のファンダメンタルを反映していないと反論している。日本には膨大な個人金融資産があるとか、貯蓄投資バランスが巨額の黒字を示しているとか。でもこれは「政府の借金」を返すのに「民間のお金」を当てにしていることを改めて白状しているようなものではないのか。日本の個人金融資産を相続税で召し上げれば借金などすぐ返せると豪語した官僚がいたが、とんでもない話である。グローバル化の時代には国民の金融資産は国際的に移動が可能だ。資本が政府を選べる時代だ。民間は馬鹿政府の尻ぬぐいをするのにもう飽き飽きしている。

日本経済の歴史を少しでも勉強したものは、政府が日本の経済の潜在力が強いから国債の償還は大丈夫だと言うたびに、また日本伝統の「徳政令」か、或いはそのたぐいの国民収奪政策をやるつもりだなと警戒感を深めてしまうのである。今も昔も、日本の政府には「民のものは公のもの」という思いこみがある。いい加減に国民の財産を当てにするのはやめてほしい。日本政府の国債はやっぱりやばいと思う。

2002年5月5日日曜日

受験戦争が構造改革を阻む?





2002.5.5
今日はこどもの日。粽を食べて菖蒲湯だったかしら。あまり昔のことだから忘れてしまった。でもこどもの日ということで、教育について考えてみたい。このホームページの付属掲示板で教育問題が話題になって、とても楽しいおしゃべりだったんだけど(掲示板もときどきのぞいてくださいね)、そのなかでちょっと気になったことがあった。日本の教育システムが日本の構造改革を阻んでいるんじゃないかと思いついたわけ。もし本当だったら、これは深刻だね。一つの仮説だけれど、聞いてくれますか。

まず、今の受験中心の教育システムだけれど、その評価については議論が分かれるね。詰め込み教育こそ問題だから、もっとゆとりを持たせたカリキュラムにするべきだとする意見がある中で、それに反対する意見もあります。散人はどちらかというと現在の中等教育というのは相当いい線をいっていると思っている。若いうちは「ゆとり」なんって言わさずにがんがん詰め込みをするべきだよね。だって知識がないと考えることすらできないもん。考える力を付けさせる意味でも知識の詰め込み教育は意味がある。子供が「ゆとり」なんて言うのは10年早い。そう信じていたんだけれど、詰め込み式受験勉強もちょっと問題かなあといま考え直しはじめている。これは教育それ自体の問題と言うより、この教育(受験)システムがもたらす日本の経済社会への影響についてなの。

ご承知の通り、現在の受験戦争は相当激しいね。親も大変みたいだけれど、子供はもっと大変。かなりハードな勉強を相当期間続けなければ「いい大学」に入れない(らしい)。子供は遊びたい盛りだから、ふつうの場合、勉強はいやがる。それを親(特に母親)が無理矢理勉強させる。それ自体は大変結構なんだけれど、馬にニンジンのたとえじゃないけれど、子供にニンジンを見せびらかして勉強させるみたい。飴と鞭かな。「勉強しないとお父さんみたいにいつまでたってもうだつが上がらないよ」とかいうらしいから。それは致し方がないところもあるから、父親としては甘んじて許容するにしても、問題はニンジン(飴)の方ね。子供が「いい大学」にさえ潜り込むことができれば一生いい暮らしができる、今だけの辛抱よと教え込んで、子供がまたそれを信じてしまうらしい。

実際はそういうことはないんだけれど、そういう競争に一応勝ち抜いてきた日本社会のいわゆる中堅層(サラリーマンやお役人)は、あれだけしんどい受験戦争を勝ち抜いたんだからそれなりの「見返り」が生涯にわたって保証されて当然と考えるようになるみたい。その「見返り」というのが現行システムで享受できるいろんなフリンジベネフィットだと言うことであるからして、現行システムが変わってしまうと困ったことになる。「話が違う」という事態はどうしても避けなければならない。だからいかなる改革にも抵抗するものすごい保守的でマッシブな階層が大企業のサラリーマンを中心に形成されていくことになる。これはきっと受験指向の現在の教育システムのもたらす一番ネガティブな結果だと思う。

企業にはびこる体育会系のメンタリティーが、この「みんなの利益を守るために仲良く一緒にがんばろう」の動きをさらに強固なものとする。企業経営は当然「従業員第一主義」となりガバナンスが利かなくなる。諸悪の根元だな。

日本の中等教育制度は確かに世界に誇れるものがある。でもそれは所詮中等教育でそれ以上のものじゃない。一番の問題は、その子供のゲームのような中等教育での勝者に人生の特急券を渡す(と見なされている)現行の受験選抜制度。その意味で今般の中教審が発表した中間報告で、専門職養成のための文科系の大学院教育の充実を訴えたのは、ちょっと遅かったけれども、非常によかった。人生の特急切符というものがもしあるなら、それは子供にではなく大人になってから与えるべきで、その数ももっと少なくすべきだろう。大学生も大学院にはいるために勉強するようになるし、へんな選民意識もなくなるはず。

でもこういうことに真っ先に反対するのが、すでにシステムに潜り込んでいるいわゆる「エリート」たちなんだなあ。自分の立場がなくなると思うらしい。あなたもそうですか? やはり受験戦争が保守的な大量の「エリート」を作り出すという散人の仮説は当たっているみたい。

2002年4月5日金曜日

〔再録〕fj.books における楽しいお話。荷風の小説『来訪者』について、随筆『日和下駄』 についてなどなど

2002.4.5
fj.books における楽しいお話。荷風の小説『来訪者』について、随筆『日和下駄』
についてなどなど。新たな発見がいくつもありました。
永井荷風
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投稿者(From) 余丁町散人
件名(Subject) 永井荷風
グループ(Newsgroups) fj.books
投稿日(Date) Sat, 29 Sep 2001 23:03:54 +0900
記事ID(Message-ID)
所属(Organization) Tokyo Metallic Communications Corp. -----------------------------------------------------------------------
<japan.life.seniorに書いたものだけど、こちらの方が適当なようなので>
吾輩が隠棲する余丁町というところは、新宿の街外れにしては開発が遅れた、やや雑
然とした街で、別段とり立てて自慢するほどのものはなにもないのですが、敢えてひ
とつだけあげるとすれば、この街にふたりの明治の文人が住んだことでしょうか。坪
内逍遙と永井荷風がそうです。
このうち坪内逍遙宅跡についてはすっと前から東京都教育委員会による看板表示があ
るのですが、荷風については長らく無視されており、その旧居跡を示す表示は余丁町
のどこにもありませんでした。ところが先週ようやく「永井荷風旧居跡」との立て札
が余丁町通りに建てられたのです。逍遙に遅れること実に十数年。でも熱狂的「荷風
ファン」を自認する吾輩にとってはまことに喜ばしいことで皆様にご報告したいと思
います。(教育委員会のえらい人は荷風なんて嫌いだったのでしょうね。「教育的で
はない」ということかな)
荷風が好きな人は、ほとんど例外なく年輩者。しかも男性と言われています。吾輩も
それを信じていたのですが、この前荷風について詳しい川本三郎の講演を聴きに行っ
たとき、聴衆に若い女性が結構多かったのには驚きました。最近荷風を見直す傾向が
顕著になっていますが、年輩者ばかりでなく若い女性にも理解されるようになってい
るらしい。まさに「後生畏るべし」ですね。(もっとも、日本近代文学の三本の柱は、
鴎外、漱石、それに「荷風」であると喝破した赤瀬雅子という比較文学の先生は女性
です。何事にも例外はあります)
でも、若い女性に理解者が広がったとしてもシニア世代にとっての荷風の魅力が減る
ものではありません。今度岩波から荷風の日記『断腸亭日乗』が改めて発刊されるの
も隠然たるファンが多いことを物語っています。ともあれ、徒然なるままに荷風散人
の文章にひねもす陶然と酔いしれるのは、吾輩の至福の暇つぶしであり、生活そのも
のとなっているのです。
すこし荷風について話しませんか。
--
余丁町散人 naoyuki_hashimoto@mac.com

2002年4月4日木曜日

〔再録〕ニュースグループ(fj.books) における楽しい談話  (荷風について、浅草について、岡山について etc.etc)

20024.4
Re: ふらんす物語
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投稿者(From) 余丁町散人
件名(Subject) Re: ふらんす物語
グループ(Newsgroups) fj.books
投稿日(Date) Tue, 20 Nov 2001 11:15:01 +0900
記事ID(Message-ID)
ようこそ!naoyukiさん!
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 Wataru Mizutani at mizutani@jrcat.or.jp wrote on 2001.11.18 10:19 AM:
>
>> 荷風は『フランス物語』を読んで感傷的すぎて「ひとり旅」を除けば
>> うんざりだったのすが、
『すらんす物語』の話が出たので、ひとつだけ。
ひとつだけといいましたが、もうひとつふたつ。
田辺聖子は荷風が大嫌いで、荷風の文章の中での女性蔑視(?)の言葉には「驚倒」
すると書いているのですが、彼女はそれでも『ふらんす物語』のなかの「祭りの夜が
たり」は楽しかったといっています。南仏のアビニオンで旅行者が女にスッテンテン
にされるお話ですが「恐ろしいのは南国の女だ」と荷風はすっかり恐れ入っています。
この辺が彼女のフェミニストとしての復讐心を満足させたようです。
「ひとり旅」は少々理屈っぽいところもありますが良いですね。最後に伯爵が「宮坂
のような変わった男、思想の病人が出てきたのは、すなわち日本の社会が進歩した複
雑になった証拠ぢゃないか。私は喜ばしいことだと思ふ」といってお終いになります
が、現在の日本はどうなんでしょうね。まだまだ「変人」の数が少ないようにも見え
ますが・・・。
--
余丁町散人 naoyuki_hashimoto@mac.com

2002年3月23日土曜日

クアハウスは楽しい



石和温泉に行ってきました
                 ..................
余丁町散人

年一回の人間ドック、今年は山梨県の石和温泉病院に出かけました。今まではずっと都内の病院での一日コースで能率的に済ませていたのですが、いまや時間がたっぷりある隠居の身、ちょっと遠いのが気になりましたが、せっかくだから温泉にでも入りながらのんびりと健康診断を受けようかと考えたもの。結果として大正解でした。

クアハウスは楽しい

富士山も綺麗に見えた

併設のクアハウスはとても快適で楽しめましたし、受診者本位のゆったりとした検診方式もなかなか良いものでした(都内の病院では受診者が自分でいろいろの診察室を巡回する方式をとっていますが、ここでは受診者は座ったまま待っておれば看護婦が来て案内してくれます。とてもいい気分)。ただ食事の量の多さにはちょっと閉口しました。「温泉病院」たる所以なのでしょうが、おかげで当分節食を続けなければならなくなりました。

帰りは時間があったので、河口湖、山中湖経由、一般道を通って帰りました。市街地を離れると日本の自然は十分残されており、咲き始めた花木が混じる山の緑は美しく、所々に散在する山の集落の風景も一つ一つちがった趣があり、とてもいいドライブでした。

でも東京に近づくと交通量が増え、街の風景も暑苦しくなってきます。一番渋滞したのはいわゆる郊外の住宅地といわれるところ。みんな車で移動するからでしょうか、極端に渋滞していました。

わが家に帰り着いたのは夕刻。昨日吹いた春一番のおかげで先週満開になったばかりのハナモモは相当花を散らしておりましたが、幸い遅咲きのハナモモ(白色)は影響を受けずにおり、満開の姿で我々を待ってくれていました。猫もいるし、やっぱりわが家は落ち着きます。

つらつら思うに
***

道中つらつら考えることがありました。一つには、日本の宿泊施設での食事の量の多さについて。いまや多くの客は「泊まる」為に旅館ホテルを利用します。でもいまだに日本の旅館では食事にこだわりすぎているような気がします。この十年で旅館の売上は4割減との統計もありますが、ニーズの変化を読み間違っておれば当然のことでしょう。

もう一つ考えたことは、日本の自然の素晴らしさにあまりにも対照的な市街地の景観についてです。広告、電柱が無秩序に立ち並び、はっきりいって醜い。日本もやることがいっぱいある。富士山の自然が美しかっただけに尚一層この思いを強くいたしました。

ちょっと「隠居の小言」みたいな近況報告となりました。

2002年3月20日水曜日

〔再録〕荷風とお岩さん


「荷風塾」学校通信
School News
2002.3.20 学校通信 No4
荷風とお岩さん
    余丁町散人「荷風塾」学校通信の第4号です。今回は余丁町からちょっと離れて、荷風と於岩稲荷の関係について。お岩さんといえば四谷左門町の田宮神社。余丁町から目と鼻の先です。当然荷風もここにお参りしたことがあるはずと睨んでいたのですが、違うんですね。別のところのお岩さんだったんです。これが今日のお話。

散人は年甲斐もなくお化けのお話が好きなんですが、荷風はさすがは合理主義者、あまりその類のお話は書いていません。でもその荷風にも「お化け小説」に近いものもがあるのです。それが昭和19年に書かれた小説「来訪者」。お話は、老齢期に達した作家(荷風)が偶然文学を語り合える二人の若い友人に巡り会う。しかし、結局彼らに裏切られ、失望落胆するというものですが、主人公の老作家(荷風)が書いた『怪夢録』というお化け話の原稿が重要な小道具として使われているし、また悪役になる若者は(その罰として)お岩稲荷のそばの越前堀の隠れ家で人間離れした淫女に苦しめられるという、荷風にしては珍しく「お化け小説」の色彩が強いものです。とても面白い。

ところがこの小説の評判は決してよくありません。為にするために書かれた陰険な個人攻撃の文書と見なされることが多いようです。確かに、この「悪い若者」のモデルとなった平井程一(アーサー・マッケンの翻訳者として知られている人物)はかなり迷惑を被ったようです。でも実際の平井程一は博覧強記の立派な人物であり、いまでも彼を師と仰ぐ人々は少なからず存在するようで、それらの人たちによって、平井程一先生を攻撃した荷風はとんでもない「陰険爺」だと書かれる、というのが実態のようです。




紀田順一郎『略して記さず』では
 たとえば平井程一に私淑した紀田順一郎は『略して記さず』と題した文章の中で次のように書いています。

<引用はじめ>
「荷風は『おかめ笹』という滑稽小説があるように、本来ユーモア感覚に富んだ人だが、この作品はジョークにもならなかった。終わりに近い部分で荷風が「京橋区湊町は越前堀のお岩稲荷の側」にあるという二人の隠れ家を探索に行く場面があるが、お岩稲荷は昔から四谷左門町にあるものと相場が決まっている。こうした初歩的なミスが生じたのは、是が非でも二人の人物を淫靡かつ矮小な世界(ここでは怪談)に押しこめることで頭がいっぱいだったからであろう。お常をお岩に見立て、真夜中になると人が変わって白井を追い回すという趣向により、荷風は単純な復讐心を満たしているのである。(中略)要するに、あらゆる意味で荷風の執拗な復讐心の現れた作品というしかない」
<引用終わり>

痛烈ですね。散人もお岩稲荷は四谷の左門町にだけあるものと思っていましたので、越前堀というのはお話を面白くするために荷風が設定したフィクションだろうと考えていました。しかし、昨年ネットニュース fj.books で久留さんという方から、当時お岩稲荷は越前堀に移転していたので、この点については荷風が正しく「初歩的なミス」をしたのは紀田順一郎の方だと教えて貰いました。いやあ、嬉しかったですねえ。さすがにネットの世界は広大です。いろんな物知りがいる。

早速、四谷の田宮神社(お岩稲荷)に赴き縁起を調べますに、その通りだと判りました。お岩稲荷の始まりは四谷左門町で寛永13年(1636年)に遡りますが、文政8年(1825年)の東海道四谷怪談の上演以降、歌舞伎役者を中心に参拝客が増え「於岩稲荷」として有名になります。しかし明治12年の火事で社殿が焼失し四谷から越前堀に移ったのでした。それが第二次世界大戦でまた焼失し、今度は四谷左門町、新川2丁目(越前堀)二カ所に再建したということのようです。荷風が「来訪者」を書いたのは昭和19年ですから、その時は於岩稲荷はまさしく越前堀にあったのでした。

散人はこの度「来訪者」をもう一度読んでみましたが、「筆誅の書」という印象は受けませんでした。東京下町の風景の描写もしっとりしていて、さすがは荷風とうならせますし、老作家の青春を惜しむ気持ちが、去っていった二人の若い友人への暖かい感情と重なって、むしろ荷風は二人を懐かしんでいるのではないかとさえ感じたくらいです。平井呈一氏と実際に会って話を聞いた秋庭太郎によれば平井程一本人は荷風をいっさい恨んではいなかったそうで、なんだか肯ける気がいたします。
荷風と越前堀のお岩さん
  『日乗』 S10.10.29
最近また『断腸亭日乗』を読んでいて、荷風が実際に越前堀の於岩稲荷に参拝していたことも判りました。昭和十年十月二十九日の記述です。

「晴れて好き日なり。・・・風静かなれば歩みて新大橋に至り船に乗りて永代橋を過ぎ越前堀の岸に上る。・・・河岸通りに聳える三菱倉庫(注:あとで荷風は住友倉庫と訂正している)の裏手に出でお岩稲荷に賽す。震災後この淫祠もいかがなりやと思いしに堂宇は立派に新築せられ参詣の人絶えず。・・・・大正のはじめ頃この淫祠の門前筋向かいの貸家にたしか荒川とやらいいし淫売宿あり。若き後家人妻など多きときは七八人も集いいたることもありき。今日もこのあたりの貸家には囲い者らしきもの多く住めるがごとし」

さすがは荷風です。十年近く前に散歩の途中に観察した場景をしっかり小説に再現しているのです。荷風の実地調査の綿密さにはいつもながら驚嘆いたします。

ちなみに散人の実地調査の結果では、東京には於岩稲荷と称するものが全部で四つあるようです。二つの田宮神社については上に述べた通りです。三つ目は四谷左門町の田宮神社の向かいに陽運寺というお寺で、その境内に「於岩稲荷」が祀られています。田宮神社が越前堀に移転していた間、留守を守ってきたのでしょう。更にもう一つ(四つ目)は四谷三丁目のスーパー丸正の入り口にあるセメントで作られた「於岩供養水かけ観音」です。買い物客が出入りの度に水をかけてお参りをしているので、ここのお岩さんが四つの中で一番「参拝客」で賑わっています。

左に掲載している写真は越前堀のお岩さんのものです。四つ全部のお岩さんの写真はアルバムに作っておきましたので下のリンクからご覧ください。

<追記 2002.8.15>
上記に引用した紀田順一郎氏の文章は荒俣宏編著『大都会隠居術』(1996)における引用を引いたもの(孫引き)です。しかし今般『紀田順一郎著作集第7巻』(1998)を入手、収録されている「日記の虚実 略して記さず」および「永井荷風ーその反抗と復讐」を調べましたが、同じ文章とはなっておらず「初歩的なミス」のくだりは入っておりません。荒俣宏氏は多分最初に出された『日記の虚実』(新潮選書1988)から引かれたものと推察しますが、その後紀田順一郎氏はその部分を書き改めておられます。

四つのお岩さん